2つの公武合体論と尊王攘夷(歴史勉強メモ)

2つの公武合体論と尊王攘夷(歴史勉強メモ)

まず、幕府ですが、井伊大老暗殺後は、公武合体路線をとることになります。
文字通り、公家と武士が一つになってこの難局を乗り切ろう、という考え方です。

一方、孝明天皇の朝廷側も公武合体論路線をとるのですが、その目指すところは180度違います。

幕府の公武合体論は、開国和親、つまり
「外国とともに世界の一員としてやっていくには日本は一丸とならなくてはいけない」

それに対し、孝明天皇の公武合体論は攘夷目的
「外国を追い出すために日本が一丸とならなくてはいけない」というわけです。

目的は180度違いますが、どちらも公武合体を求めていたため、井伊直弼のあとの幕府の中心となっていた安藤信正の進言もあり、14代徳川家茂のもとへ皇女・和宮の降嫁がなされます。

このときの薩摩藩は朝廷とほぼ同じ考えで、攘夷目的の公武合体論で、
長州だけが尊王攘夷です。
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尊王攘夷というと、幕府を倒すことだと勘違いされがちですが、そういう意味ではありません。ペリーやハリスの圧力に屈する幕府なんてたよりにならない。あんなの放っておいて孝明天皇を中心に攘夷をやっていきたい、という考え方です。

尊王攘夷派は、幕府が絡むとろくなことがない、と和宮降嫁にも反対し、江戸城坂下門外で安藤信正を襲撃します。(坂下門外の変)

この変をきっかけに「公武合体」はトーンダウンします。
公武合体を声高に唱えると殺される可能性がありますからね。
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これに危機感を感じたのが薩摩の島津久光です。
島津は、将軍家茂に対し、幕府の改革をせまり、公武合体を主張。

幕府が島津の進言を容れて進めたのが文久の改革です。具体的には安政の大獄で弾圧されたり、窓際に追いやられた改革派の人たち、一橋慶喜らを政治の中心に戻します。

もうひとつは、江戸から遠い薩摩の藩主らしいものですが、参勤交代を3年に1回にしてしまう。後から考えると、これによって薩摩は財力を蓄えることができ、最終的に幕府を倒す大きなポイントとなってくるわけです。

また、この後島田久光が改革を進言して薩摩に帰る途中、横浜で起した生麦事件で今後の薩摩の立ち位置を大きく変えることになります。
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