「権利を使うのは当然」と考えない ―野田聖子氏の言葉への違和感―(曽野綾子)

「感謝が抜け落ちた言葉」

雑誌を読んでいたら、野田聖子議員に対して行われたインタビュー記事が出ていた。
この人は子どもを持ちたい、母になりたい、という思いが強く、なかなか妊娠できなかったのをアメリカで卵子の提供を受け、50歳になってから母になった。

ところが、長男はいくつもの障害を持って生まれてきて、何回もの手術を受けてその短い人生の多くの時間を病院で過ごしている。

この問題について高齢出産はどんなに人間の自然に反しているのかという意見や、胎児にも危険が高まるという医師の言葉も何度も聞いている。

一方で、医学的な検査で異常が出てきても正常に生まれたという例を数回聞いているし、この子供たちももしかすると中絶させられるところを、素晴らしい人になって、社会で働いているかもしれない。

夫婦が長い人生の道のりでどんな生き方をするべきかというのはもちろん当事者にしかわからないことだ。私たちは、夫婦が自分の体力、経済などの許容範囲で法に触れない限り、どんな生き方をしてもいいと思っている。

現在の日本では、かなり突拍子もない自由も許される。だから、周囲が口をさしはさむべきことはないし、野田夫婦に関して言えば、病気に打ち勝って成長してく息子の姿を見れば、その存在に異議をさしはさむ人はいないだろう。どうにかして無事に育ってほしいと思うばかりだ。

しかし、野田氏のインタビューの中に、私はどうしても違和感が残る言葉があった。
インタビュアーは、費用はどうして出したか、という当然の質問をしている。
誰もが基本的に思う疑問だ。それに対して野田氏は、

「え、費用ですか。息子を授かる費用は夫が蓄えてきたものの中から出して、生まれてからの息子の医療費は、医療制度によって支えられています。
高額医療は国が助けてくれるので、みなさんも、もしものときは安心してください。」


この部分に関して、おそらくすべての人は黙しているだろう。何よりも大切なのは命の継続だ。

しかし、この野田氏の言葉は重要な点に全く触れていない。それは自分の息子がこんな高額医療を、国民の負担において受けさせてもらっている、一抹の申し訳なさ、感謝がまったくない点である。

もう一度明らかにしておかなければいけないのは、私は野田氏の子どもさんに高額医療を受けさせるのはいけない、と言っているのではない。

病を抱えた子供たちが、充分な医療を受けられるように国民健康保険の制度が作られている日本と言う国は、世界的に見て「天国のような国」なのだ。その国民である野田氏夫妻が、これを利用して子どもさんを育てることも、誰にも憚かれるのことのない当然のことである。

しかし、それだけでは済まないと私は思う。
私自身が、まず野田氏の言葉に違和感を覚えたのは、野田氏がこのことを当然の権利の行使と考え、その医療費を負担している国民への配慮が全く欠けていることであった。

誰にとっても、出費の心配などせず子どもさんの治療ができるのはいいことである。

しかし、その背後に人間性があるかないかで印象は非常に変わってくる。

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「遠慮という言葉で表される美学」

確かに不当な遠慮はいらない。不運や病気は当人の責任ではない。
そのような不平等を越えて、生まれてきた以上、生きることが人間の使命でもある。そして人間は生かされ、同時に他者を生かすためにも働くようになる。

ところが、最近では、受けて与えるのが人間だという自覚が全く薄くなった。長い年月「人権とは要求することだ」と教えた。これが人間の精神の荒廃の大きな原因であった。

しかし、少なくもと私は「人権とは、受けて与えることです」と教えられて育った。最近周囲を見渡すと、実にもらうことが平気な人が多くなった。「もらえば得じゃない」とか「もらわなきゃ損よ」とか、そういう言葉をよく聞くようになったのである。
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昔、すくなくとも明治生まれの母の世代には、もう少し別の美学があった。
当時の人たちは、今の人と比べると当時の教育の程度は随分低かった。

しかし、精神の浅ましさはなった。遠慮という言葉で表される自分の分をわきまえる精神もあったし、受ければ、感謝やお返しをする気分がまず生まれた。

野田氏のように権利を使うことは当然という人ばかりが増えたから日本の経済は成り立たなくなったのだ。使うのが当たり前、権利だから当然、という人が増えたら、結果として日本社会、日本経済はどうなるのだろう、という全体の見通しには欠けるのである。

私たちは、誰もが多くの人のお世話になって生涯を送る。
お世話になっていいのである。他人のお世話にならずに生きていける人などいない。しかし、どれだけお世話になったか見極められない人に何の仕事もできない。

政治はもちろん、外交も経済も学問も芸術も、すべては強烈に他者の存在を意識し、その中の小さな小さな自分を認識してこそ、初めて自分の分をわきまえ、自分が働ける適切な場を見つける。それができるようになって中年から老年にかけて黄金のような日々を送れるのだ。

肉体が衰えていっても、魂や眼力に少し磨きがかかる。
成熟とは、鏡を磨いてよく見えるようにすることだ。
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