「他人を理解することはできない」(曽野綾子)
信仰なんかもっているの、とばかにされる場合もある。
神という概念は科学的ではないからである。
ところが、私は信仰がないと不自由だろうな、と思うことはある。
自分のしたことを正確に評価されることを他人に期待するからである。
うる覚えなのだが、とある人生相談を読んで印象に残っているものがある。
隣に住む老女を長年親切心から世話をしてきたが、その一人の息子はたまに顔を合わせても礼をいうことはなかった。
そしてその葬式のときには一言ぐらいお礼があるだろうと期待したが、息子は遂に最後まで感謝の言葉を述べることはなかった。
世話をした女性はショックで、自分が長年してきたことが急に空しいことから、ばかばかしいことのように思え、彼女自身が身の上相談に投書しなければならないほどの鬱に近い心理状態になったという。
私も同じような経験をしたことはある。
しかし、いささか厳しい表現だが、あえていいたい。
「礼を言ってもらいたいくらいなら、何もしない」
長年の親切を本当に褒められるのは神だけである。しかし神は表彰もご褒美のお金もお出しにならないから、人間は心のなかで褒められた光栄を味わうだけになる。
私が幼い頃から、キリスト教の信仰に触れてよかったと思うのは、自分の行動の評価者として神しか考えないようになったことだ。もちろんわたしも俗物の最たるものだ。
人間に褒められることは、私の心をくすぐるものである。
しかし、私が何を思って何をしたかを本当に厳密に知っているのは神だけだ、と最終地点の認識はいつも心の中にある。
だから人にどう思われたっていいというわけではないが、いつのまにか、他人の毀誉褒貶(きよほうへん)は大きな問題ではない、という心の姿勢が私はできるようになった。
一見、世間からは糾弾されるようなことでも、神の目から見たら褒めてもらえるようなこともあるだろう。その反対に、世間がもてはやしてくれても、神の眼から見たら何ら評価されるべきでない場合も実にたくさんあるだろう。
世間からどう思われてもいい、人間は確実に他人を正しく評価などできないのだから、と思えることが多分成熟の証なのである。それは、自分の中に、人間の生き方に関する好みが確立してきたということだ。
亡くなった人の息子から遂に礼を言われなかった奥さんも、彼女の行為はすべて神に見られて評価されるだろう、と思えば多分鬱になることもなかったのではないだろうか。