京都の和菓子ばなし

最近は茶掛軸のことばを考えてみたり、「和」のものにまつわるブログが多いのですが、一歩踏み込んで、京都の和菓子、についてちょっと調べてみたことを書いてみます。

まず、京都の和菓子ランキングなるものを調べてみると・・・
→リンク  コトログ京都 -和菓子-

1位 千寿せんべい 鼓月
2位 あぶり餅 一和
3位 阿闍梨餅 京菓子司 満月
4位 生八ツ橋 聖護院八ツ橋総本店
5位 名代豆餅 出町ふたば


とあります。ありゃりゃ、有名なものばかりですが、手土産と観光客が頂くお菓子ばかりになってるじゃないですか。そりゃそうですね、こういうランキング自体がそういうのを目的にしているんですから。040.gif
c0190486_19261187.png


京都で和菓子を語り、理解するうえでどうしても必要なのは
「菓子屋」と「饅頭屋」と「餅屋」の3つの商売の区別です。

京都の人々の口調では「おかしやはん」「おまんやはん」「おもちやはん」といいます。

この3者の違いを語るとすれば、「菓子屋」「御菓子司」(おんかしつかさ)といい、「もてなし」の菓子を、「御饅頭屋」は庶民の「おやつ」を、「餅屋」は京で赤飯や神仏へのお供え用のお餅やお華束(おけそく)を扱った商いを指します。なお、「餅は餅屋」という諺は、上方(京都)の「いろはかるた」から生まれたと言われています。005.gif

この3者をそれぞれの場で使い分けるのが京の暮らしの文化でした。この区別も今は知らない人が多くなりましたが、3つの商売が一体となって京都の菓子の世界をつくってきたのです。056.gif

次に「もてなし」の菓子の発生「御菓子司」についてです。

単にお菓子といえばおやつを思い浮かべる人や、甘い物をイメージする人が多いと思います。しかし、先ほどの「菓子屋」の作る菓子は、お腹の足しになることを期待して食べられるおやつとは違い、また本来甘い物ばかりではありませんでした。011.gif

日本人が甘い物をお菓子として食べるようになったのは、南蛮文化とともに金平糖やカステラなど砂糖を使った純粋に甘い物をお菓子として食べる文化が入ってきてからのことです。

それまでは、利休の会記にも出てくるように、お茶の世界でも、お菓子と言えば柿や栗、または餅に味噌を塗った餅などでした。当時は小指の先ほどの大きさの金平糖3粒が出城と交換できたという話があるほど、砂糖や砂糖を使ったお菓子には価値があり、誰もが食べられるものではありませんでした005.gif

こうした時代背景を考えると、お菓子を食べることができ、人に食べさせることができたのは、相当なステイタスがあったということがわかります。お菓子は本来、貴族的な食べ物、いわば上流階級の食べ物だったのです。072.gif

そしてさらに、自分が食べるものではなく人に食べて頂くことで自分の地位や相手を思う気持ちを伝えようとした「もてなし」としての菓子が生まれたのです。

当時はお茶も、信長や秀吉など日本の階級制のトップにある人たちの世界でしたから、お茶の世界のステイタス性と砂糖のもつステイタス性、そしてお茶のこころである「相手を立ててもてなす」気持ちとお菓子が結びついていったのはごく自然なことでしょう。012.gif
c0190486_19264234.png

京都のお菓子屋でよく「京菓子司」と頭に書いてあるのを見ます。
「司」とはお公家さんから「掾(じょう)」や「介(すけ)」という位をもらい、専属の御用をするという意味で、江戸時代を通じて京都で続いた上菓子(じょうがし)屋仲間という組合制度からきた身分でした。上菓子屋仲間は248軒と数が限られていて、御菓子司しか白砂糖を使うことを許されていませんでした。

現在京都にある菓子屋は御菓子司から暖簾分けによって代を継ぎ、伝統をつなげてきました。

このように京都でお菓子を支えてきたのは、茶道の家元はもちろんのこと、天皇さんを中心とするお公家さんや寺社仏閣などの特権階級でした。


まず第一に、菓子屋のつくる菓子は季節を表したものがすべてともいえます。
季節こそが菓子の命。季節そのものだけではなく、その時期が来る前に待ちこがれる期待感から始まり、盛りの時季、そして過ぎ去った季節への追憶までが菓子の季節表現の対象となり、人々はこれを心で感じ楽しみます。

つまり、単に春夏秋冬だけではなく、それぞれの「移ろう姿」を表現することが京菓子の特徴なのです。

第二に、菓子がそれぞれ「銘」を持ち、命名されてもちいられるということです。
京都の菓子は、具体的にものの形を表現したものが多いのですが、東のお菓子のように写実的ではなく象徴的、抽象的に表現したものが多くあります。
これらのお菓子を分かりやすくするために「銘」をつけたのです。

第三に、形や色が「雅」であるということです。
色はいわゆる「はんなり」と言われるように柔らかい色調であり、平安時代の女装装束の文化である「襲(かさね)色目」の色組合せがよく使われます。
そして形も江戸時代の元禄のころから京ではやった「琳派」(りんぱ)の型や文様がよくもちいられ、おおらかな形が公家階級や庶民まで広く好まれ、菓子として多く取り入れられてきました。

第四に、京の菓子は「もてなし」「贈答」の品として「主(あるじ)」の「客(きゃく)」へのメッセージを伝えるものとしての役割がありました。
そこには「味」と「美しさ」の世界を超越した「心」を伝える食べ物としての役割が潜んでいるのです。


しかし、現在菓子屋を取り巻く環境は大きく変化しています。007.gif
機械化、が進み、各地のキオスクではたくさんのお菓子がならび、大量生産、大量販売が主流になっています。
お菓子を頂く生活の場も変わりました。各家庭から床の間や座布団が消えていくにつれ、「お客様用」という設備や考え方がなくなり、家にお招きする人はすべて「おともだち」になりました。048.gif
当然「もてなし」としての菓子の役割も変化せざるを得ません。
家族も変化しています。核家族が増え、祖父母と一緒にお菓子を食べることも少なくなったので、菓銘に込められた季節や和歌の世界など、お菓子の持っている物語性は子どもに伝えられなくなりました。

こんな時代だからこそ、お茶会でも日常の生活でもお菓子を単なる食べ物と思わないで、そこに込められた貴族性や高度な文化性を日本文化のエッセンスとしてとらえ、体得し、次の世代につなげていきたいものです。
[PR]