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「働きざかりの心理学」河合隼雄 -働きざかりの苦悩―

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久しぶりに開いてみた本ですが、読まされる、考えさせられる文章なので引用しておきます。

「働きざかり」というのは、響きのよい言葉である。それぞれの人がそれぞれの職場において、自分の出しうる力を最大限に用いて仕事をしておられることであろう。
「働きざかり」というと、一般に何歳くらいの人を思い浮かべるだろうか。これはもちろん仕事の種類にもよるが、ここではだいたい30歳から40代前半くらいの人たちを念頭にかんがえてゆくことにしよう。

20代のころは、青年としての勢いをもつにしろ、無我夢中だったり、周囲に適応してゆくのが大変だったり、空回りの努力もあるし、「働きざかり」というわけにはいかない。孔子の「三十にして立つ」という言葉どおり、やはり一人前になるのは30歳くらいであろう。そして50歳に近づいていくと、自分では若い者と同じつもりでいたとしても、どこかに体力の衰えを感じ始めるものである。

日本が戦争をしていたころは、働きざかりはすなわち「死にざかり」であったのだ。
現代社会においてはどうだろう。

ある日、30歳すぎの会社員が相談に来られた。
会議中に急に動悸が高まってきて、冷や汗が出てくるし、大げさではなく、「死ぬかもしれぬ」と思うほどの状態になった。様子の激変に同僚も驚いて救急車を呼んでくれた。ところが、医者の診断では別に異常なところはないということで、ほっとすると元気になり、そのごは何事もなく仕事を続けた。ところが、その後しばらくして同様の発作が起こり、今度は以前と別の医者に行くと、「心臓神経症」と言われたのである。

ところで、この人と話し合ってみると、会社の経営方針についての批判が滔々(とうとう)と述べられた。それは、批判というより批難あるいは不満に近い方のものであった。会社への批判は世の中全般へと拡大され、世の中の人たちは利益ばかりを追求して大切なことを忘れている。自分のためばかりを考え、他人を蹴落とすことなどなんとも思っていない、などなど。その勢いのいい話し方に接していて、私はふと大学1,2年生の姿を思い浮かべてみた。われこそは正義の味方であり、世の中はすべてダメという勇ましい姿も、大学生あたりだとサマになるが、30歳の大人ではあまりぴったりこない。
自分の人生に責任を持ち、主体性をもつとき、人間はそれほど簡単に正義の旗ばかり振ってはおれないものだ。
働きざかりのひとは何らかの意味で責任を負わされる。それは会社においても、家庭においてもそうである。責任を持つということは、光と影の両面を背負うことになる。影のほうばかりをみて、世の中こんなものであると割り切るのも馬鹿げているが、矛盾を背負うことによって疲れてくる人もある。
心臓神経症というはっきりしたものでなくても、影を背負いながら心を患う「働きざかり」の人は案外多いものである。

これらの人は、働きざかり、つまり「大人」というものになる関門を越えられず、青年期の間に成し遂げておくべき課題をひきずったままにしているので、疲れてくるのである。あるいは大人という重荷をのせられて青年期の古傷が痛み出したと言ってよいのかもしれぬ。こういった人は過去をふりかえって、自分の弱点を補強し、大人の世界に参入する努力をなさねばならない。



今日、親戚で中堅会社の役員をしていたおじと話をしていたところ、おじの会社も日本法人の450人のうち6名はメンヘルで長期休職している、そうです。
それも、ご多分にもれず、30代―40代の「働きざかり」世代。

友人の会社もだいたい同じくらいの割合、全体の1-2%くらい、同じくらいの比率で休職している人がいるとか。
同じ働きざかり世代として大いに考えたい問題です。

おじによると、おじの会社でも、やはり人の手柄を自分の手柄にしたり、人を蹴落としたり、能力がないのにゴマすりで出世している人もあるみたいです。
おじは言っていました。
「組織とはそういうものだよ。自分の立ち位置は自分で決めたらいい」と。

清濁併せのむ、というのが社会人の常なのではないでしょうか。私は、ひねくれているのか、テレビのドキュメンタリー等でやっている、100%正義の美談も、何か裏があるんじゃないか、と疑ってしまいます。
光と影のなかで、本当の「大人への脱皮」をするのは30代なのかもしれません。

こういうことが社会的に問題になる以前15年以上前に書かれた本、ってところがすごいですね。
by hito2653 | 2012-12-23 20:30 | 読書